とある初夏の夜、不意に胸騒ぎがして家を出た。ざざ、ざざ…と風が草木を鳴らす中、整備された山道を歩いていく。
椿鬼の祀られている社まではそこそこの距離があるが、通い慣れている一にはそう苦でもない。やや急ぎ足で歩き続けること数十分、ようやく目的地へ辿り着いた。
敷地内へ踏み入れるといつものように彼女の式が奥から現れた。深く丁寧にお辞儀をして、
「主さまはお休みになっておられます」
と、言外に帰れと言ってくる。
それでも椿鬼の顔をひと目でも見たくて、
「わかってる。顔見たらすぐ帰るから」
そう言うと、式は顔を上げて表情のない目を一へ寄越した。しかしそれ以上はなにも言って来なかったので、足音をひそめて、けれど早足に椿鬼の部屋へ向かった。
その途中だった。椿鬼の部屋の障子に手をかけようとしたとき、すすり泣く声が聞こえた気がした。思わず足を止めて耳を澄ませる。
「……っ、ぅ、ぅ…」
それは確かに椿鬼の声だった。
彼女は滅多に声をあげて泣かない。人前で泣いたり弱みを見せるのを嫌うひとだが、それとは別で声を殺して泣くのが癖になっているようで、一ですら声をあげて泣くところを見たのは片手で数える程度だ。
胸騒ぎが間違っていなかったことに安堵と憂慮を覚えつつ障子越しに声をかけた。
「椿鬼、入るよ」
障子を開くと椿鬼は目を見開いてこちらを見ていた。動揺しているのか円かな月のような瞳が揺れている。満月の柔らかい明かりに照らされた泣き顔はひどく綺麗で、美しいと感じる心と愛しく思う心が混ざり合う。
足音を殺して近づくとさっと顔を背けて寝巻きの袖で顔をごしごし擦り始めた。気位の高い彼女のことだから、泣いているところなんて見られたくなかったはず。それでも放っておけなくて傍にひざまづき、白い頬に手を添えて自分の方を向かせた。
泣き腫らした上に強く擦ったからだろう、目元は赤く腫れていた。しかしそれすら化粧のようで、涙で濡れた椿鬼を一層美しく魅せていた。
ほとんど無意識だった。彼女の頬に手を伸ばした直後、乾いた音と同時に手に衝撃が走った。
手を弾かれたと気がついたのは、彼女が泣きながら怒鳴ったあとだった。
「お前は私の恋人ではないだろう!?」
悲痛な叫びに一瞬思考が止まる。けれどすぐに回り始めた頭で冷静に反論する。
「…その肩書き、今必要かな?」
びくりと椿鬼の肩が跳ねる。どこか怯えたような表情でこちらを見つめ、数歩後ずさったかと思うと、慌てた様子で部屋を飛び出して行った。
それを追うことはせず、黙って叩かれた頬を撫でると、僅かだが指先に血がついた。きっと叩かれた際に椿鬼の爪が掠めたのだろう。
「…恋人か」
椿鬼の過去については本人から多少聞いている。人間に捨てられ、鬼に捨てられ、その中で手酷く扱われてここまで流れ着いたこと。長年家族のように慕っていた鬼たちから受けた道具のような扱いはきっと恐怖以外のなにものでもなかっただろう。もしかしたら想いびともいたかもしれない。
「恋人」という言葉はお守りと同時に呪いのようなものになっているような気がした。
「俺、全然わかってないなぁ…」
苦笑いと一緒にぽつりと零す。
最近は少しずつだが物理的な距離が縮まっていたし、一緒にいる時間も長くなってきていたから、心の距離感を見誤っていたかもしれない。
強めに頬を叩いて顔をあげる。いつまでも悩んでいたって仕方がない。部屋の隅にあった筆記具を拝借して一筆残し、丁寧に畳んでおいておく。根は真面目で繊細な彼女のことだから、きっと自分の気配がなくなればこの部屋の様子を見に来るはずだ。
本音を言えば今すぐ探して謝りたいところだが、椿鬼自身今は気持ちや考えの整理がついていないかもしれないので、今日はこの辺りでお暇するべきだろう。酷いことをしたのは一ではなく彼女自身だと思っているのが目に見えてわかる。
ずっとそうだ。初めて出会ったときから、ずっと。
明日はなにを手土産にするか考えながら古びた社を後にする。もう少し仲良くなりたい。もう少し、彼女を知りたい。
一を出迎えた式はなにも言わなかったが、主の精神状態はしっかり共有されているようで、伏せ目がちな目がいつも以上にじっとりと一の背中を睨んでいた。